創業100周年記念特集1

「社会課題」から振り返る
RN建設2つのルーツ

2026年、当社は創業100周年を迎えました。RN建設は、歴史や社会的役割の異なる2つの企業を源流として誕生しました。海上土木と煙害対策・震災復旧という異なる出発点を持ちながら、両社はいずれも創業期から、事業を通じて社会課題の解決に向き合ってきました。本特集では、当社の2つのルーツにおける創業期の取り組みを振り返ります。

りんかい建設編

技術で築いた海上土木の礎

渡辺了武のりたけと大正時代の羽田沖埋立

渡辺了武の写真

渡辺了武

原点は、大正時代の埋立事業

りんかい建設のルーツは、大正時代の埋立事業にあります。港湾や臨海部の整備は、近代日本の産業と物流を支える基盤づくりとして、社会的にも重要な役割を担っていました。その最前線で技術者として経験を積んだのが、後に同社を創業する渡辺了武です。

技術者としての出発と、港湾工事の現場

渡辺了武は熊本県に生まれ、官立熊本高等工業学校(現熊本大学)で機械工学を学んだ後に土木技術者としてキャリアをスタートさせました。20世紀初頭、港湾や水辺の工事は高度な技術と現場対応力が求められ、機械化や新たな工法の導入が進んでいました。技術革新に心を躍らせた渡辺は日本統治下の台湾へ渡り、総督府基隆築港局に就職します。

浅野総一郎との出会いと鶴見埋築事業

大きな転機となったのが、浅野財閥の創始者・浅野総一郎との出会いです。1910年代、渡辺は浅野財閥が進めた鶴見から川崎にわたるエリアの埋築事業に参画。埋築部長として工事の中核を担いました。この現場で活用されたのが、当時としては先進的だったポンプ式浚渫船です。海底の土砂の浚渫と埋立を同時に行うことができ、港湾整備の効率化に大きく貢献しました。この技術が、渡辺の胸を大きく揺さぶったのです。

羽田沖埋立に賭けた決断

1920年代に入ると、民間航空輸送の広がりを背景に、飛行場整備を見据えた羽田沖での大規模な埋立計画が持ち上がります。この計画を知った渡辺は、自らが担うべき仕事だと受け止めました。そして、鶴見埋築事業の現場を離れ、自らの責任でこの工事に臨む決断を下します。1926年5月5日、渡辺は匿名組合を結成し、ポンプ式浚渫船「第一臨海丸」を建造。羽田沖埋立工事への参画に踏み切りました。

自らつくり、使いこなす施工体制へ

1927年、渡辺は社名を「臨海土木工業所」に変更し、海上土木を専門とする会社としての基盤を固めていきます。さらに、施工に必要な特殊船や部材を自社でまかなうため、渡邊製鋼所を設立。作業船を設計・ 建造し、それを用いて施工する一体的な体制を築きました。この姿勢は、創業期におけるりんかい建設の事業の方向性を示すものとなりました。

現在にも引き継がれる「役割」

羽田沖埋立への取り組みは、当時の交通インフラ整備という社会的要請に対し、施工のあり方そのものが問われる事業でした。りんかい建設の創業期は、その要請に応えるための技術や体制を、試行錯誤の中で組み立てていった時代だったといえるでしょう。そして社会インフラ整備という役割は、100年を経た現在も、RN建設に引き継がれています。

創業期の主な事例

羽田空港第1期埋立工事(1926年)の写真

羽田空港第1期埋立工事(1926年)

飛行場を築くという前例の少ない計画に対し、浚渫と埋立を同時に進める施工方法で応えました。新しい航空インフラを成立させるための、基盤づくりに挑んだ画期的な事例です。(写真は羽田沖埋立地)

各地の港湾等整備(1928年~1930年頃)の写真

各地の港湾等整備(1928年~1930年頃)

伏木港、清水港、博多港、大阪南港など、日本各地の港で浚渫・埋立工事を実施。1930年までに6隻のポンプ式浚渫船を建造し、条件の異なる現場に、一つひとつ向き合いながら工事を進めました。(写真は第三臨海丸)

勝鬨橋の大歯車鋳造(1940年)の写真

勝鬨橋の大歯車鋳造(1940年)

可動橋として建設された勝鬨橋を動かすために欠かせない大歯車を、渡邊製鋼所が鋳造。機構の中核を担う部材を通じて、都市交通を支えました。
(写真は渡邊製鋼所電気炉と勝鬨橋銘板)

日産建設編

復興から始まった
建設への道

大煙突建設を淵源とする技術力

宮長平作の写真

宮長平作

技術の原点「日立鉱山の大煙突」

日産建設の原点は、久原鉱業の日立鉱山で建設された「大煙突」(1914年)にあります。
当時、深刻な社会問題となっていた煙害を解決するために建設されたこの煙突は、世界一の高さ(約155m)を誇り、技術によって社会課題を克服する象徴的な事例となりました。この煙突の設計と監督を担当したのが、後に日産建設の創業者となる技術者・宮長平作でした。この「困難な課題を技術で克服する」という経験は、宮長にとって単なる実績にとどまらず、その後の仕事のあり方を方向づける原点となったのです。

現場で積み上げた信頼と「震災復旧」という未経験の課題

宮長平作は富山県に生まれ、東京大学土木工学科を卒業後、久原鉱業に入社し、同社が経営する日立鉱山の工作課技師として、高さ世界一を二度も更新した煙突建設などに携わっていました。
そのような中、1923年に発生した関東大震災は、交通網をはじめとする社会インフラに甚大な被害をもたらしました。生活基盤の復旧が喫緊の課題となる中、久原鉱業は都内の公立小学校9校の復旧支援を表明します。「大煙突」で社長から厚い信頼を得ていた宮長が、工事の責任者に抜擢されました。
宮長は久原鉱業の工事部門を任される形で、個人事業として復旧工事に着手。土木・建築請負業の営業許可を取得し、未経験の分野である土木工事に、仲間とともに取り組みました。

社会インフラ整備を担う建設会社へ

小学校の復旧工事の完了後も、宮長らは震災で崩壊した街を復旧させる事業を継続。当時、業界ではあまり歓迎されていなかった復旧工事を、彼らは「奉仕の精神」で率先して受託。受注量第1位を記録しました。この事業のための「久原工事部」の立ち上げが日産建設の源流です。
一連の工事で積み上げた信頼と磨き上げた技術は、出雲橋、一ツ橋新築工事をはじめ、継続的な仕事へとつながっていきました。1928年には久原工事部が法人化され、1930年には社名を「中央土木株式会社」と改称。震災対応のためにつくられた臨時的なチームから、社会インフラ整備を担う企業へと成長していく過程で、体制を整えていきました。
こうした動きの中で、道路や橋梁に加え、建築物の受託も次第に増加。事業を建築分野へと本格的に拡大しました。

高い評価を経て、新たな挑戦へ

1931年6月、東京市道路祭において、宮長平作は道路築造功労者の表彰筆頭として感謝状を授与されます。これは、関東大震災後の復旧工事を起点に、道路や橋梁といった社会インフラの整備に継続して貢献してきた仕事が、公的に評価されたことを意味します。
この評価を契機に、同社は次の段階へと進みます。1936年には、日本初の自動車工場である「日産自動車横浜工場」建設を手がけ、その後の造船ドックの建設工事など、新たな可能性に向けた挑戦が始まりました。

創業期の主な事例

日立鉱山大煙突(1914年)の写真

日立鉱山大煙突(1914年)

久原工事部設立前に、宮長平作が設計の総責任者として携わった事例です。鉱山操業の煙害対策として建設され、当時、世界一の高さを誇る煙突として注目を集めました。このとき植林した桜は「さくらのまち日立」のルーツとなりました。

一ツ橋新設工事(1925年)の写真

一ツ橋新設工事(1925年)

関東大震災で失われた都市機能の回復を目的に進められた橋梁の改築・新設工事の一つです。これを機に、久原工事部は橋梁工事を数多く手がけるようになります。

日産自動車横浜工場建設(1936年)の写真

日産自動車横浜工場建設(1936年)

日本初の本格的な自動車量産工場として建設された、当時随一の大プロジェクトです。横浜・宝町の広大な埋立地における基幹工場の建設を完遂。他の埋立地への工場新設工事も当社が手がけました。


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